「韓国人はどうしてあんなに悪口を言うんですか?」
フィリピンで暮らしていた頃、現地のスタッフから韓国人について聞かれたことがある。
韓国人が口にする悪口は自分たちにも分かる。それなのに、どうしてそんな言葉を何気なく使うのか、という質問だった。
私は、それはその人が失礼なのであって、韓国人がみんなそういうわけではない、と答えた。
それは本当のことだ。現地の人をきちんと尊重する韓国人もたくさんいた。
それでも、気持ちはすっきりしなかった。
フィリピンで暮らし、商売をする中で、現地の人をどこか見下しているような韓国人を何度も見てきたからだ。
あの乱暴な口の利き方には、単なる無礼さ以上のものがあるのではないか。
なぜ、一部の人は別の国の人間をそれほど簡単に下に見るのだろう。
私には、その偏見の入り口が肌の色にあるように思える。
偏見は、まず肌の色から始まる
韓国社会には、人種に対する偏見があると思う。
もちろん、すべての韓国人がそうだと言いたいわけではない。私が韓国や海外で実際に出会った人たちを見て感じたことだ。
一部の人は、相手の国籍も背景も知らないうちに、肌の色で判断を始めているように見えた。
肌の色が濃い人には気軽にぞんざいな口を利いたり、軽く扱ったりする。一方、白人には最初から好意的に接する。
相手がどんな人なのか、まだ何も知らないのに。
見た目だけで東南アジアの出身だろうと思い込み、その国は経済的に豊かではないはずだと決めつけることもある。
けれど、肌の色だけで国籍など分からない。白人がみんな先進国出身とは限らないし、肌の色が濃い人がみんな貧しい国から来たわけでもない。
それでも、本人を知る前に頭の中で勝手に分類を終えてしまう。
私が問題だと思うのは、まさにそこだ。
「単一民族」という考えの中で育った社会
こうした視線は、どこから来たのだろう。
背景の一つとして思い浮かぶのは、韓国社会で長く強調されてきた「単一民族」という意識だ。
韓国人は、自分たちは一つの民族だという考えを強く共有してきた。肌の色や人種的背景が異なる人と日常的に接する機会も、かつては今ほど多くなかった。
そうした環境で育てば、違う肌の色を珍しく感じることはあるだろう。
だが、珍しいと感じることと、差別することは別だ。
見慣れない外見に興味を持つことと、その人を見下すことは同じではない。
「単一民族」という意識だけで韓国の人種的偏見をすべて説明することもできない。人の考え方には、さまざまな要因が関わるはずだ。
ただ、当たり前だと思ってきた視線そのものが、長年慣れ親しんだ社会の考え方から生まれている可能性はある。
結局、大切なのは相手をどう感じるかではない。
実際にどう接するかだ。
「いい国から来たね」。でも、いい国って何だろう?
韓国で先進国から来た旅行者について話すとき、こんな言葉を耳にすることがある。
「いい国から来たね」
その一言自体が悪いわけではない。暮らしやすそうな国に憧れたり、行ってみたいと思ったりするのは自然なことだ。
問題は、その先にある。
先進国から来たと思う相手には親切なのに、経済的に豊かではない国から来たと思う相手には態度を変える人がいる。
私はそういう姿を見ると、つい考えてしまう。
いい国って、いったい何だろう?
国によって経済力も生活環境も違う。それは事実だ。
でも、その違いが人間の価値まで決めるのだろうか。
豊かな国に生まれたから立派な人になるわけではない。経済的に厳しい国に生まれたからといって、尊重される価値が下がるわけでもない。
一部の韓国人の態度には、先進国への憧れと、より貧しい国に対する優越感が同時に見える。
私はそこに矛盾を感じる。
その人自身ではなく、その人の背後にある「国のイメージ」を見ているからだ。
「おい、焼酎もう一本!」――無礼なのか、人種差別なのか
韓国の食堂では、こんな言い方を耳にすることがある。
「おい、焼酎もう一本!」
これは特定の場面を録音した言葉ではなく、乱暴な呼び方の一例だ。
私は、外国人の店員にため口を使ったり、見下した態度を取ったりする韓国人客を何度も見た。
逆に、韓国人の店主や従業員が外国人客をぞんざいに扱う場面もあった。
ただ、ため口を使ったというだけで人種差別だと決めつけるつもりはない。
その人は、若い韓国人の店員にも同じ口調で話すかもしれない。それなら、人種よりも年齢や職業によって人を下に見る態度の問題かもしれない。
韓国語のため口(반말、パンマル)は、親しさを表すこともある。韓国人が年齢を尋ねる理由と、言葉遣いの関係は別の記事でも説明した。
だから、言葉遣いだけを見るのではなく、誰に、どんな態度で話しているのかを見なければならない。
同じような状況で、肌の色が濃い外国人には無礼なのに、白人にはひどく丁寧だとしたらどうだろう。
それを単なる口癖で片づけてよいのだろうか。
フィリピンで見た、一部の韓国人の傲慢さ
フィリピンでは、現地の友人たちに助けられながら暮らし、仕事をした経験もある。私にとって大切な思い出だ。
その一方で、現地の人を乱暴に扱う韓国人も何度も見た。
ため口に韓国語の悪口を混ぜて話す人。お金さえ払えば何をしてもいいというような態度を取る人。相手を召し使いのように扱う人もいた。
そういう場面に出会うと、私はやめるように言った。
ところが、注意されても大したことではないという反応をする人がいた。
私が不快だったのは、単に言葉が荒いからではない。
韓国より経済的に厳しい国の人だから、ああいう扱いをしても構わないと思っているかのように見えたからだ。
もちろん、本人が本当は何を考えていたかまでは分からない。繰り返し目にした行動から、私がそう受け取ったということだ。
それにしても、現地の人が韓国語を流暢に話せないからといって、悪口の意味まで分からないわけではない。
何より理解できなかったのは、そんな振る舞いを指摘されても気に留めない、その無頓着さだった。
なぜ自分の偏見を認められないのだろう?
フィリピンで、無礼な態度を注意されても気にしない人たちを見て、私は考えた。
もしかすると彼らは、自分の差別を認めたくないのではなく、そもそも差別だと認識していないのではないか。
その根底には、一種の傲慢さがあるように思う。
肌の色や出身国によって相手を自分より下だと考えていれば、乱暴に扱うことさえ当たり前に感じてしまうかもしれない。
本人の基準では、何も悪いことをしていないことになる。
傲慢だから自分の行動を差別だと認識できない。認識できなければ、認めることもできない。
少なくとも、私が出会った一部の韓国人については、そう感じた。
もちろん、差別のすべてが無自覚から生まれるわけではない。悪いと知っていて否定する人もいるだろう。
それでも私が見た中には、最初から相手を対等な人間として扱う意識が足りないように思える人がいた。
では、何を変えればいいのだろう。
私は「差別をしてはいけない」と教えることと同じくらい、相手が誰であっても、まず尊重することを学ぶのが大切だと思う。
そう考えると、自然と母のことを思い出す。
母から学んだ、人を尊重するということ
母は、私と兄が付き合っていた女性たちにも敬語を使っていた。
母から見れば、娘ほどの年齢の女性たちだ。年齢だけ考えれば、気軽にため口で話しても不思議ではない。
それでも母はそうしなかった。
私自身も、韓国で初めて会った人に簡単にはため口を使わない。相手が大人でも十代でも同じだ。
誰から学んだかと聞かれれば、答えは簡単だ。
母からだ。
韓国では、こういうことを「家庭教育(가정교육、カジョンギョユク)」と呼ぶ。
母が特別に立派な人で、私だけがほかの韓国人と違うと言いたいわけではない。
むしろ私は、多くの韓国人が家庭で人を尊重することを教わり、普段の生活でもそれを実践していると信じている。
人に礼儀を守ること、むやみに乱暴な言い方をしないことは、韓国では決して珍しい教えではない。
もちろん、礼儀を教わったからといって偏見がないとは限らない。敬語を使いながら差別することもあれば、親しい間柄ではため口が自然なこともある。
大切なのは、言葉の形より相手に向ける態度だ。
母から学んだのは、単に敬語を使う習慣ではなかった。
人をぞんざいに扱わないことだった。
だからこそ、韓国とフィリピンで目にした一部の韓国人の行動が残念でならない。
韓国人であることが恥ずかしいと言いたいのではない。
私たちが大切にしてきた礼儀や尊重の姿勢が、相手の肌の色や国籍によって変わってはいけない、と言いたいのだ。
以前、韓国人は礼儀正しいのに、なぜ後ろの人のためにドアを押さえないのかという記事でも、韓国の礼儀が外国人には矛盾して見えることについて書いた。けれど、人種的な偏見は単なるマナーの違いで済む話ではない。
私は韓国人だ。だから韓国のいいところを伝えたい。同時に、自分の目で見てきた不都合な姿まで隠したいとは思わない。
一部の韓国人の傲慢さや偏見が、韓国人全体を表すわけではない。だからといって、その偏見を見ないふりをしていいわけでもない。
韓国を知るということは、誇れる姿だけでなく、私たち自身が見つめ直すべき姿も知ることだと思う。
韓国で、肌の色や出身国によって対応が違うと感じたことはありますか?
経験や韓国についての疑問があれば、ぜひコメントで聞かせてください。私に分かることなら、お答えします。

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